日本漢文の世界:本の紹介

書名 懐風藻の詩と文
副題
シリーズ名
著者 川上 萌実(かわかみ もえみ)
出版社 汲古書院
出版年次 令和5年(2023年)
ISBN 9784762936838
定価(税抜) 7,000円
著者の紹介 著者(1988-)は日本学術振興会特別研究PD。
所蔵図書館サーチ 懐風藻の詩と文
Amazonへのリンク 懐風藻の詩と文
本の内容:

 『懐風藻』は、天平勝宝3年(751年)に成立した、現存する日本最古の漢詩集です。
 天平勝宝の時代は、聖武天皇の孝謙天皇への譲位とともに始まりますが、当時は遣唐使の時代であり、鑑真の来日(755年)などの出来事もありました。
 『懐風藻』は官撰ではなく私撰の詩集であったため、長い間埋もれていて、江戸時代初期に林羅山によって再発見されたのです。
 淡海三船(おおみのみふね、722-785)、葛井広成(ふじいのひろなり、生没年不明)、藤原刷雄(ふじわらのよしお、生没年不明)といった人々が編者に擬せられてきましたが、はっきりしたことは分かっていません。
 ただ、わが国の漢詩文黎明期の漢詩作品は、『懐風藻』に掲載されたもの以外はほとんど残っていないため、『懐風藻』は当時の漢詩作品を知るうえで唯一無二のものです。
 『懐風藻』は冒頭に大友皇子(弘文天皇)の詩を置き、非業の死をとげた大津皇子や、藤原不比等(ふじわらのふひと)らの詩を載せています。しかし、ほとんどの作者は五位以下の一般官人です。近江朝から奈良朝までの作品を掲載し、作者は64人、作品数は120首となっています。

 これまで『懐風藻』の漢詩作品は、草創期ゆえに和習にみちた拙いものだと評価されてきました。実際、『懐風藻』に用いられている詩語には漢籍に用例のないものが多数あります。しかし著者は、それらは未熟さゆえの和習ではなく、わが国の上代の文壇で発案・共有された、わが国独自の詩語であること、そして当時のわが国には洗練された独自の漢詩文化がすでにあったことを立証したのです。

 本書の第一部「詩語をめぐって」において著者は、『懐風藻』に見られる漢籍に用例のない詩語を「用例未見語」と名づけ、4つのパターンに分類しています。

1.漢語の一部をあらためたもの(第一部第一章9ページ)
 漢語の一部を改変した造語であるが、漢籍の用例に基づかない身勝手な改変になっているものです。これは未熟さゆえの和習です。

2.故事の連想によるもの(第一部第一章12ページ)
 著者は懐風藻の52番、山田三方の詩にある「牙水」という語を例示しています。漢籍には用例のない語ですが、故事を踏まえて造語されたものです。
 「牙水」は、琴の名手である伯牙(はくが)の琴の音は、まるで流水のようになめらかであったという故事から、伯牙の「牙」と流水の「水」を取って造語されました。この故事は、当時重宝されていた類書『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』に典拠があります。
 そして「牙水」の造語法は単なる身勝手な思い付きではなく、『千字文(せんじもん)』の造語法を模倣したものでした(第一部第二章55ページ)。
 『千字文』の造語法とはどのようなものでしょうか。たとえば『千字文』では、竹林の七賢の一人である阮籍(げんせき)の嘨(しょう=くちぶえ)を「阮嘨」と縮約しています。伯牙の流水のような琴の音を『懐風藻』が「牙水」と縮約したのは、『千字文』のこの造語法を模倣しているのです。『千字文』が縮約して造語しているのは、少ない字数(千文)の中に多くの故事を詰め込むためでしたが、『懐風藻』の作者たちは『千字文』が編み出した縮約の造語法に注目し、それを模倣して新たな詩語を創作するのに利用したのでした。

3.白話を取り込んだもの(第一部第一章14ページ)
 『懐風藻』の成立当時は遣唐使の時代で、唐との行き来がありました。そのため、当時の口頭中国語(白話)が詩語として取り込まれています。著者は、食べる意味での「喫」、怖がる意味での「怕」などを挙げています。これらは中国では詩語にはならなかったため、扱いとしては用例未見語になるのです。

4.漢籍の発想に基づかないもの(第一部第一章20ページ)
 懐風藻の6番、大津皇子の詩※に、天を紙にたとえて「天紙」とし、風を筆にたとえて「風筆」としているのは、漢籍にはない発想の詩語です。空の紙に風の筆で雲の鶴を描く、という6番の詩の発想は、当時すでに非常な発展を遂げていた和歌の発想法を漢詩に取り入れたものであり、わが国の漢詩が中国の詩を模倣しつつも、わが国独自の発展をとげつつあったことを示すものです。
※七言 述志
 天紙風筆画雲鶴 山機霜杼織葉錦
 後人聯句
 赤雀含書時不至 潜龍勿用未安寝


 著者は、これらとは別に、当時唐からもたらされてわが国で流行した恋愛小説『遊仙窟(ゆうせんくつ)』や『千字文』の語が、『懐風藻』で詩語として用いられていることも指摘しています。(第一部第二章)
 『千字文』は、中国では子供に字を教えるための「初学書」だったので、『千字文』の語を詩に用いることは忌避され、中国では詩語になりませんでした。しかし、わが国では『千字文』は珍重されていたので、その語は『万葉集』の和歌や『懐風藻』の漢詩に用いられたのです。

 このように『懐風藻』の詩人たちは、さまざまな工夫をして独自の詩語を作り出し、作者間で共有していました。
 しかし、次代の平安朝において漢文学は『白氏文集』などを本格的に模倣して大きな発展を遂げました。そのため、上代人が工夫して作ったわが国独自の詩語を、平安朝の詩人たちは一顧だにもしませんでした。そしてこれらの詩語は後代に継承されれることはなく、後代の人々からは未熟・和習とみなされるに至ったのです。

 本書は著者の博士論文がもとになっています。山崎福之氏の序文によると、著者は様々な文献資料をデータベースを縦横に検索し、従来は見出しがたかった詩語の用例を明らかにしたとのことです。今後はデータベースやAIの活用により、本書のような画期的な成果が続々と出てくるに違いありません。新しい時代は確実に到来しています。

2024年12月7日公開

ホーム > 本の紹介 > 懐風藻の詩と文(川上萌実著)

ホーム > 本の紹介 > 懐風藻の詩と文(川上萌実著)