日本漢文の世界:本の紹介

書名 素読のすすめ
副題  
シリーズ名 ちくま学芸文庫
著者 安達 忠夫(あだち ただお)
出版社 筑摩書房
出版年次 ちくま学芸文庫版は平成29年(2017年)、原版は昭和61年(1986年)の発行。
ISBN 4-480-09818-6
定価 1,200円
著者の紹介 著者(1944-)はドイツ文学者。埼玉大学名誉教授。
本の内容:



 本書は1986年(昭和61年)講談社現代新書の一冊として初めて世に出てから、カナリヤ書房より2004年(平成16年)に再販され、2017年(平成29年)にちくま学芸文庫版が出ました。形を変えながら、30年以上にわたって読み継がれてきた名著です。
 素読とは、漢文などを細かい意味を教えずに、ただ朗読させることです(「素読」という用語については本書68ページ以下でくわしく説明)が、教育上に大きな効果があるというのです。
 本書では、著者の子供が小さいとき、近所の子供らを集めて行っていた「寺子屋」の話から始まります。そこで著者が試みていた素読の方法は、音読と訓読を併用するというものでした。
 具体的には次のようなやり方です。(本書28ページ)

原文「早発 白帝城 李白」
教師「ソウハツ ハクテイジョウ リハク」
生徒「ソウハツ ハクテイジョウ リハク」
教師「早(つと)に白帝城を発す 李白」
生徒「早に白帝城を発す 李白」

原文「朝辞 白帝 彩雲間」
教師「チョウジ ハクテイ サイウンカン」
生徒「チョウジ ハクテイ サイウンカン」
教師「朝(あした)に辞す白帝 彩雲の間」
生徒「朝に辞す白帝 彩雲の間」


 このように、漢詩文をまず音読みし、そのあと訓読していく、というやり方です。

 子どもたちにとっては、音読みの響きのほうが、耳と口に快感をあたえてくれるらしい。子どもたちの思いがけない反応に刺激されて、わたし自身も勇気づけられ、音読みの楽しさに耳をひらかれるようになった。(本書31ページ)


 このような、音読みと訓読の併用というやり方は、中村正直と岡田正三に学んだと著者は言っています。
 中村正直(1832-1891)は敬宇と号し『西国立志篇』『自由之理』などの翻訳でも知られる明治の啓蒙的漢学者です。

 正直は、素読のやり方について、江戸末期の儒学者、塩谷宕陰(一八〇九─六七)から聞いた話を紹介している。宕陰の父は、宕陰に素読を教えるとき、訓読と直読とをかさねて読ませた。たとえば、「学びて時に之れを習う ガクジジシュウシ」「亦た説ばしからずや フエキエッコ」といったぐあいに読んでいく〔訓読のほうが先にくる点だけ、冒頭に示したわたしたちのやり方と異なる〕。今になってみれば、漢文を書くとき語順を転倒するということがなく、父に感謝している、と。正直自身もこの併読法を実行していた のかどうか、定かでないが、正直は中国音が得意で、中国人とも流暢に会話ができたそうだから、ふだん漢文を読むときは、やはり直読していたのかもしれない。(本書97-98ページ)


 岡田正三(1902-1980)は、一般にはあまり知られていませんが、プラトンを専門とするギリシア哲学研究者です。

 今日ではまったく埋もれている、岡田正三の『漢文音読論』(昭和七年)という本のことを、わたしは先に述べた金岡照光氏の本のなかで初めて知ったのであるが、八方手をつくしてみても見つからない。結局、金岡氏のご好意に甘えて、直接この本を拝借することができた。(本書144ページ)


 インターネットがなかった時代に、絶版となった本を探すのは至難の業でした。金岡照光氏の本とは『仏教漢文の読み方』(春秋社)のことで、それには件の『漢文音読論』は次のようにサラリと紹介されているだけです。

 やや古くはプラトン学者でもあった岡田正三氏は、『漢文音読論』(昭和七年、政経書院)の如く、「反読(訓読)はせいぜい文章の骨組しかとらえぬ」として、日本に伝えられている漢音を以て、漢文を音読すべしと説いた識者でもある。(『仏教漢文の読み方』208ページ)


 この一文を見て、「八方手をつくし」た著者の情熱には恐れ入ります。著者は岡田氏を次のように絶賛しています。

 まず、 日本古来の漢文の読み方を一つ一つ具体的に検討しつつ、そこには文法の意識 が欠如しているため、幾多の誤謬がそのまま受け継がれていることを指摘する。つまり、もっぱら古人の経験に頼った受身的な読み方であるだけに、西欧の古典研究のばあいのように論理的思考の働く余地がなく、解釈上の進歩がみられない。岡田氏のプラトン学者としての研鑽がいたるところにかいまみられ、塵をかぶって半ば埋もれかけていた中国の古典が、ギリシアの古典のような清新な姿で立ちあらわれることに一驚する人も多いことであろう。(本書145ページ)


 その岡田氏の方法は次のようなものでした。

 日本に伝わっている音で漢文を読もうというばあい、呉音、漢音など、伝来の時代によって異なる発音がすべてそのまま通用しており、漢字音の混乱ということが問題になってくる。(中略)岡田氏は、日本に伝えられている漢音をとることを提唱している。漢音といっても、日本語の発音に引きつけて、カナによってとらえた音だから、原音がかなり摩滅しているのはやむをえない。しかし、当時の実際の響きを意外に正確にとどめている面もあるらしい。(中略)ただし、岡田氏は、漢文の音読に際して、多少の修正をほどこすことを提案している。の修正をほどこすことを提案している。
一、ハヒフへホをすべてパピプペポに読む(たとえば、「波」パ、「平」ペイ、「保」ポ)。
二、中国語はすべて単音節なので、語尾のフ、ク、ツ、チ、キ、は、子音として読む。
三、四声を発音しわける。
 わたし自身は、このうち二だけしか実行していない。とくに漢詩のばあいなど、一つの漢字を必ず一つの音節として発音しないと、せっかくのりズムが生きてこないからである。(本書147-148ページ)


 このような実践をして、子供たちに目に見える効果があり、著者の方法を用いて素読を実践している幼稚園も存在している(本書68ページ)とのことですが、素読が教育上に効果をあげた顕著な例として、湯川秀樹博士(1907-1982、ノーベル賞受賞者)、貝塚茂樹博士(1904-1987、中国史学者)、小川環樹博士(1910-1993、中国文学者)の三兄弟を生み出した小川家における素読教育について、貝塚博士に直接インタビューされているのは、貴重な記録です。(本書48-58ページ)
 また、著者は「素読」による教育的効果を論ずることに重きをおいており、西洋における「素読」にも多大な関心を寄せ、本書中にも実地調査を踏まえたレポートを書いておられます。
 本書で取り扱われている「素読」は、教育者としての著者のなみなみならぬ情熱による実践報告であり、外国の状況についても、自身の体験をもとにしたレポートとなっている点が貴重です。本書がロングセラーとなっている理由であると思います。


2021年1月31日公開

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