日本漢文の世界


長谷川君父子瘞髪碑現代語訳

長谷川父子の遺髪塚の碑

亀山 節宇
 明治維新後の文明開化により社会は激変した。社会が激変したために、維新の前後の賢人たちは、同じ道を歩むことができなくなった。この事情は賢人たちに限った話ではない。世の一般の父親は自分が歩んできた道を子に強いることができなくなり、子も自分が正しいと信ずる道を、父親と争って認めてもらうことができなくなった。しかし、社会の変化に沿って、それぞれの道を歩んでいながらも、やっていることは実は良く似ていることもある。長谷川家の父子は、これに当たるであろう。
 父親の方は、名を鍛冶馬(かじま)といった。鍛冶馬君の父の名は綱一、母は長谷川氏である。鍛冶馬君は、天保2年(1831年)に姫路で生まれた。安政5年(1858年)に父の跡を継ぎ、八十石の家禄を相続した。鍛冶馬君は、二十歳前後から、学問に志したが、もっとも得意としたのは、無辺流の槍術である。鍛冶馬君は特別手当を支給され槍術鍛錬のため他藩へ派遣された。家督を相続した後、鍛冶馬君は筑後(福岡県)の柳川へ遊学し、加藤氏の道場に入門した。加藤氏は九州屈指の槍術家であった。当時は、まだ諸外国との通商も開けておらず、各藩は競って武芸の士の養成し、国防に備えていた。鍛冶馬君はその要員に選ばれたエリートである。鍛冶馬君は加藤氏の道場に入門して一年ほどの間に、ずいぶんと槍術の腕を上げた。しかしなおも藩主の恩に報いようと懸命の努力を続けた。ところが、翌年(1859年)の7月29日、不幸にも急病で亡くなった。享年29であった。道場の遊学仲間は、鍛冶馬君の遺骸を当地の龍徳院に葬り、遺髪を姫路の家族へ送ってきた。家族は姫路城北側の誓光寺にある親の墓の隣に遺髪を埋めて供養した。鍛冶馬君は、妻の奥村氏との間に二人の娘があったが、息子はなかった。そのため鍛冶馬君の臨終に際して、親戚一同で話し合い、久保機外の次男・己酉二(きゆじ)と養子縁組して、鍛冶馬君の娘と娶わせた。これが雉郎君である。
 子の雉郎君は、幼名を己酉二といい、長じて雉郎と改名した。父親は久保機外、母親は渡辺氏である。嘉永2年(1849年)に姫路で生まれた。安政6年(1859年)、雉郎君は鍛冶馬君の家督を相続した。家禄はもとの石高から十石を減じ、七十石を賜った。これが藩のしきたりである。雉郎君は、幼いときから聡明で、成長して藩学へ入学してからは、もっぱら漢学を修めた。その指導に当たったのは私である。慶応3年(1867年)、雉郎君は、藩主の命によって、東京及び横浜に派遣され、西洋兵学を学んだ。明治元年(1868年)、雉郎君は姫路に帰ってきたが、すぐにまた大阪へ派遣され、一年間英学を学んだ。このとき、明治維新によって国政は大変革をとげ、外国との交流も盛んになった。そうした中で、東京に大学南校が設立され、西欧諸国から教官を招聘して授業が行われた。雉郎君も南校に入学し、日夜すこしも怠らず刻苦勉強した。明治3年(1870年)8月3日、雉郎君は米国への派遣留学生に選ばれた。出発まで日があったので、雉郎君は姫路へ帰り、父兄や友人たちに別れを告げた。旧藩知事の酒井公も、このとき雉郎君に多額の餞別を賜った。9月29日、雉郎君は、米国の郵便船に乗船して横浜港から出航し、閏10月4日にニューヨークへ到着した。ニューヨークから70里ばかりのところに、トロイという街がある。雉郎君は、その地の中学教師・ウィルソン氏の家にホームステイをしながら、勉強することになった。ウィルソン先生は熱心に教授し、雉郎君も熱心に学んだ。そして、そのかたわら、その地の学徳ある老人たちと議論問答して、得るところがあった。こうして学問はどんどん進歩して、止まるところを知らなかった。雉郎君は、上(かみ)は日本人の優秀さを示して天皇陛下の御心をあらわそうと努め、下(しも)は恥ずかしい行いをして父母を辱めないようにと願っていた。その努力はまことに涙ぐましいものだった。ところが、明治4年(1871年)の夏、雉郎君は突然喀血して倒れ、冬には危篤状態となって、とうとう亡くなってしまった。時に11月7日。享年23。遺骸はニューブランズウィックに葬られた。雉郎君の発病から死亡の後に至るまで、華頂宮(かちょうのみや)殿下ら米国在住の貴顕や、留学生仲間らが協力して、日常の世話から葬儀の段取りまで、至れり尽くせりで面倒を見てくれた。なかでも、もっとも真心をつくして、親類以上のはたらきをしてくれたのは、雉郎君と同行の仲間であった旧大垣藩士・松本荘一郎君である。雉郎君を知る者は、だれもがその死を惜しんでやまなかった。師のウィルソン夫妻も、雉郎君をわが子同然に愛くしんでいたので、自らその父兄に宛てて手紙を書き、弔問の意を表した。その手紙に、雉郎君の四つの行いをたたえている。一つは潔さ、二つは学問好き、三つはつつしみ、四つは真心である。また、雉郎君の墓を「ときならぬ墓」と呼んで、その夭折を悼んだ。雉郎君の遺髪が姫路の家に送られてくると、親族で話し合い、父親の鍛冶馬君の遺髪をそれまでの墓から移して、子の雉郎君の遺髪と同じ所に埋めることにした。
 そのとき、一同は涙にくれて言った。
 「父親の鍛冶馬君は、九州で歿し、子の雉郎君は外国で死んだ。内外・遠近の違いはあるが、二人とも父母・親戚の手の届かぬところで死んでしまい、父母・親戚は埋葬に立ち会うこともできなかった。一握りの遺髪だけしか、故人を偲ぶよすががないのは、なんともいえず悲しいことだ。父の鍛冶馬君は、わが国の武術で外国に対抗しようとし、子の雉郎君は外国の文化でわが国の発展を助けようとした。しかし二人とも故郷で死ぬことはできなかった。二人の事跡はまるで正反対のようでも、実はよく似ている。これは時代がしからしめたのだ。もし父親の鍛冶馬君が今生きていたら、子の雉郎君がしたとおりにするであろうし、もし子の雉郎君が昔生きたのなら、父親の鍛冶馬君がしたとおりにしたにちがいない。だから、この父子はまさに理想的な親子といっても差し支えない。今ここに遺髪を合葬すれば、二人の魂もひとつところに帰って来て、出会うことになるだろう。」
 そこで、親戚一同はことの次第を石碑に刻むことにし、私に碑文の作成を依頼してきた。私は両君とは深いつきあいだったので、辞退するわけにはいかなかった。文明開化は非常な勢いで進展しつつあるから、文字についてもいずれ漢字が廃止されてローマ字になる日が来るかもしれない。とはいえ、私の両君との交流は、もっぱら漢学を介してのものだったのだから、この文章はとりあえず漢文で記させてもらった。
 雉郎君には息子がなかった。娘がいたが、若死にした。そこで、芦谷信志の弟・信綱を養子とし、親類の長谷川氏の娘と娶わせた。これよりも前に、士族の俸禄は明治維新により一変しており、雉郎君の家禄は五十俵(二十石)にすぎなかった。信綱君はこの家禄を相続した。

2004年3月7日公開。2007年12月1日一部修正。