日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(19)漢文訓読の問題点の検討5(語感のズレ)

(f)訓読に用いる和語が古語であるために、文意を誤解してしまうこと。

 訓読法で使用される日本語は、ずいぶん古い時代のもので、平安時代よりももっと古い、奈良時代の語法を保存しているものも多いといわれます。山田孝雄(やまだ・よしお)博士の名著、『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館出版)は、訓読語の歴史的由来を解明したものです。

 訓読で用いられる日本語は、非常に古いことばですから、現代人が訓読で漢文を読むときに無用の誤解を招いてしまうことがあります。そして、誤解は誤訳につながります。

 とくに誤解が多いのが「副詞」です。いくつか例を出してみます。

 たとえば「遂」の字は、「ついに」と訓読されます。「ついに」という和語の語感は、「とうとう」という感じです。しかし、この字はそういう意味で使用されることもありますが、ある原因があって、「その結果」という意味を表すことが多いのです。その場合は、「ついに」、「とうとう」と訳すと変なことになります。

 「頗」という字は「すこぶる」と訓読されます。「すこぶる」という和語の語感は、「非常に」です。しかし、この字はそういう意味のほかに、「少し」、「わずかに」という意味の場合もあります。しかし、訓読では「少し」、「わずかに」という意味のときでも「すこぶる」と読まれているので、間違いのもとになります。

 「良」の字は、副詞の場合は「やや」と訓読されます。「やや」という和語の語感は、「いくらか」とか「少し」という感じです。しかし、この字は「非常に」という意味で使うのです。「良久」は「やや久し」と訓読しますが、これは「かなり長いこと」と訳さなければなりません。

 「動」の字は、副詞の場合は「ややもすれば」と訓読されます。「ややもすれば」という和語の語感は、「ともすると」、「どうかすると」くらいなものですが、この字の意味はもう少し強くて、「つねに」、「かならず」という意味を表します。また、「輒」の字は「すなわち」と訓読します。「すなわち」という和語の語感は、「そこで」くらいのものです。しかし、この字は「そのときはいつでも」という意味です。「動輒」の二字で、「ややもすれば・すなわち」と訓読していますが、これは本来「からなずつねに」という意味です。

 訓読は訳語を一定させてパタン化していますが、一定させている訳語が古すぎて、現代語と語感がずれているものが多いのは大問題です。そのような語については、ある程度訳語を改定する必要もあるのではないかと思います。

 上に挙げた例では、「遂」には、「ついに」のほかに「そこで」という訓も認める、「頗」は「すこぶる」のほかに「わずかに」という訓も認める、「良久」は「たいそう久し」、「動輒」は「かならず・つねに」と訓読することも認める、などの方策を考えてはどうかと思います。しかし、伝統というものは、そういう安易な変革を許さないものです。

 加地伸行(かぢ・のぶゆき)氏は、現在固定されている和訓で、うまく原文の意味を表現できない場合は、「古訓」を復活させてはどうかと提案されています。「古訓」とは、平安・鎌倉時代には和訓として成立したにもかかわらず、後世には使用されなくなったものです。(同氏著『教養は死んだか』、PHP文庫、114ページ)。「古訓」は白川静著『字通』(平凡社)や『角川大字源』(角川書店)で調べることができます。

 こころみに「頗」字の古訓を『角川大字源』で調べてみると、次のようにあります。

(中古)カタシ・カタブク・クロクサ・スコブル・モシ・ヤウヤク・ヤヤ

(中世)カタシ・カタブク・スコシ・スコブル・ヒトヘニ・ミダリガハシ

(近世)カタブク・カタヨル・カラナ・スコブル

 この中から「わずかに」というニュアンスの語を選ぶと、「ヤヤ」と「スコシ」が使えそうです。

 同じようにして「良」には「ハナハダ」、「輒」には「モッパラ」などという古訓を復活させればよさそうです。こんな風にして「温故知新」で訓読に新風を吹き込むのも、悪くはないかもしれません。(ただ、私はそこまで勇気がないので、実践はできておりませんが・・・)

 このように、漢文を訓読で学ぶ場合には、訓読の和語と現代日本語の語感のズレということを常に意識しておく必要があります。



2005年3月27日公開。

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