日本漢文の世界


觀曳布瀑遊摩耶山記解説

布引の滝(おんだき)全景 日本漢文の世界
布引の滝(おんだき)。
2003年3月28日撮影

摩耶山上からの眺望 日本漢文の世界
摩耶山上の掬星台から神戸の街を望む。
あいにくこの日は曇っていました。
2003年4月12日撮影

摩耶山天上寺石段 日本漢文の世界
旧天上寺境内へつづく急な石段
2003年4月12日撮影

 江戸後期の文豪、斎藤拙堂先生の有名な紀行文です。まず、これだけの僅かな文字で、これだけの内容を述べきっていることは感歎のほかありません。助字の一つ一つに至るまで一切無駄な字がなく、削りに削った文章であり、まさに名人芸です。
 名勝に対する貪欲さもすごい。布引の滝を観察するのに、わざわざ滝壷まで下りて、びしょぬれになりながら陶然としていたというのですから、我我凡人の到底及ぶところではありません。布引の滝は、私も子供のころから何度も行って見ていますが、生涯に一度だけ訪れただけで滝と一体化してしまった拙堂先生には到底かないません。また、先生は布引の滝だけで飽き足らず、摩耶山にも登っています。摩耶山は、今でこそケーブルカーとロープウェーで簡単に登ることができますが、標高702メートルの山にしては、歩いて登るのはきついのです。一歩ごとにぜえぜえ言いながら登ったと拙堂先生も書かれています。そのうえ、下山したあと大阪まで(恐らく徒歩で)帰ったというのですから、その健脚ぶりにはまったく驚きを禁じ得ません。紀行文の名手、拙堂先生の名勝に対する執念をじっくり味わってください。
 六甲の山山は、周辺の住民にとっては庭のようなものです。現在盛んに行われているリクリエーションとしての登山は、明治期に居留外国人に見習って始められたとされています。それ以前から六甲山を越えて有馬温泉へ行く行商ルートなど、山越えのルートはありましたが、あくまで交通手段だったと言われています。しかし、摩耶山だけは例外で、古くから観光化されて江戸時代の観光案内書である『攝津名所図会』にも載っております。拙堂先生の文章を見ても、信仰ではなく観光のために登山していることが分かります。
 江戸時代末期から明治初期にかけて、六甲の山山は附近の住民による生活資材採集の行きすぎで、ほとんど禿山に近い状態になっていました。現在見られる青青と樹木の茂った姿は、明治30年代から営営と行われてきた植林事業の賜物です。布引の滝も、明治33年に布引貯水池が上流にできてから、幾分水量が減ったとも言われています。しかしその後、摩耶山を含む六甲山系も昭和9年に瀬戸内海国立公園の地域に指定されたことで、開発は最小限に抑えられ、美しい景観を維持しています。
 神戸へ来られる機会があるなら、ぜひ一度立ち寄っていただきたい場所です。

2003年6月1日公開。2016年6月20日一部修正。